S3佐藤トレーナーのプロフィール1

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8.プロフィール1

1.誕生

埼玉県朝霞市生まれ

 同市の有名人には尾崎豊、本田美奈子がいる。世代的にも近いが、この2人もうこの世にいない。

2.小学校

4年生から、少年野球を始めた。

 少年野球を4年生からやっていた。初めての試合で緊張してしまい、エラーをした。それ以来、試合にはあまり出してもらえず、応援ばかりをしていた。

5年生陸上クラブ

 足は速い方だと思って入ったが、速い子の中では遅い方だった。

6年生バドミントンクラブ。

 小学生ながら体力では勝てないと思い、ラケット競技にしてみた。このクラブ内ではシングルス・ダブルス共に優勝。

 小学生の時は、スポーツより図工や絵をかく方が得意で校内では何度か展覧会に選ばれた。店内に飾ってある油絵は私が小学6年生の時に絵画教室で書いたもので、ジュニア部門「佳作賞」をもらっている。

3.中学

中学校では、野球部。

 美術部と野球部で少し迷ったが、美術は大人になってもできるからと思って野球部にした。自分ではセンスがあると思っていたが、体が小さく(入学時は143センチ36キロ)打っても投げても遠くまではいかず、補欠だった。また、野球はどっちがうまいかがハッキリしないし、顧問の好みがどうしても入ってくる。私は納得がいかなかった。これ以来、団体競技から離れることとなる。

4.高校

高校では、バドミントン部。

 野球は体が小さいと不利なのできっぱり諦めた。テニスをしたいと思っていたが、軟式テニス部はあったが硬式はない。軟式には興味はなかったので、バドミントン部に入った。あまり人気はないようだが、やってみるとかなり面白かった。県大会までいったが、そこには、その年のインターハイを制した越谷南がいた。勝てるわけがない。その相手は180センチ以上の身長で体格がいい。私は「野球部に入ればいいのに……」と思った。

5.大学

大学では、体育会硬式庭球部。

 小学生の時にスポーツショップで『マッケンロー対ボルグ』を見て以来、ずっとテニスをしたいと思っていた。しかし、機会がなかった。「大学でテニスをしよう」それが大学に行こうと思った理由。学部は何でもよかったのだが、実は物理が得意で、高校の時、平均点30点のテストで100点を取ったこともあり、理工学部物理学科を志望した。
 浪人はしたくなかったので推薦をもらい、無名のM大学に入学した。迷わず体育会硬式庭球部に入部。たまたまなのだが、M大学のテニス部は絶頂期にあった。1つ上にはインカレまでいった岡田礼治がいた。他にも強い先輩がたくさんいた。当時M大学体育会硬式庭球部は関東リーグ7部から5部まで昇格した。

夢中でテニスに打ち込んだ。

 初心者の私は「このメンバーの中でレギュラーになりたい」と思った。授業がなくても9時には学校に行きテニスの練習をした。「コートに行くと必ず佐藤がいる」と言われるくらいだった。その成果もあり2年生の時に準レギュラーになれた。当時最強だった亜細亜大学とも対戦し、私はダブルスに出場した。その後、全日本選手権で学生優勝した佐藤・佐藤最強ペアと対戦し、あっという間に終わったのを覚えている。

3年生の時は、テニスコーチに。

 3年生なった時、もうそのテニス部には魅力を感じなくなった。同学年にも後輩にも強い奴はいなかった。3・4年生になるとコート整備をしなくてもいいし、ボール拾いもなくなるのに、きっぱり辞めた。
 そして、すぐに近くのテニススクールに「テニスコーチのアルバイトをしたい」と申し込んでいた。今思えば身の程知らずも甚だしいが勢いはあった。そこのテニスクラブのヘッドコーチは尾崎誠だった。元JOPランキング選手で、かなり厳しかった。また、他のコーチは東洋大学のテニスサークルが多く上手かった。結果的に、ここでの研修やコーチレベルは高く、私にはプラスになった。

6.社会人1

スポーツクラブ「ルネサンス」にテニスコーチとして入社する。

 プロテニス選手が理想だが無理なので、スポーツクラブ「ルネサンス」に入社した。もちろん他社も受けたが、条件的にルネサンスが一番良かった。テニススクールから始まったスポーツクラブで全国展開をしている。ちなみにコナミやセントラルはスイミングスクールから始まっている。
 就活中、ルネサンスのコーチレベルは高く「ここは無理だな」と思っていたが、受かってしまった。過去最高の100名入社の年だったので、100人目に入ったのだろう。

初めは埼玉県浦和市に配属になった。

私は小さなテニスクラブしか知らなかったので、ネットで仕切りを作り2人コーチで1クラス16名レッスンには驚いた。また、そこにはJリーグ浦和レッズの福田や柱谷も来ていた。

その後、長野県長野市に転勤。

 新規オープンのオープニングスタッフだった。そのクラブにはスカッシュコートがあったがスカッシュコーチはいない。
上司「スカッシュコーチしてくれないか?」
私「えっ、やったことないのですが・・・」
 3ヶ月後、スカッシュコーチデビューしていた。会員さんは、もちろん誰もやったことがなかったので何とかなった。テニスコーチはスカッシュをやりたがらない。両方やるとフォームが崩れることが多いからだ。私のテニスレベルは崩れるほどのものではなかったので気にしなかった。

テニス大会に出場できない。

 20代の一番良い時期だったのでテニス大会に出てみたかったが、土日はレッスンで出場できない。上司はしっかり日曜日を休みにして大会に出ていた。練習してもそれを試す場がない。悔しい思いをした。それでも、数回出て長野市で3位になったことはある。しかし、普段インドアでテニスとスカッシュのレッスンをしていて、大会だけ外のオムニコートなので、環境が違い過ぎて勝てない。フットサルとサッカーくらいの違いがあった。
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